「氣」って何よ?

東洋医学

こんにちは。朝夕ちょっと涼しくなってきました。風に秋の気配を感じます。秋が大好きです。ちょっとしんみりしたり気分が落ち込んだりするけど大好きです。湿気大国日本で生活しやすいのって、乾燥する季節じゃないかなと。蚊に狙われやすかったり、浮腫みやすかったりする体質のひとは、特にそうですね。

さて、今日は東洋医学、鍼灸治療に必須の、「氣」という概念について、私なりの解釈をお話しします。今の私なりの、って感じですね。考え方とか理解とかって、経験を重ねるうちに変化するものですから。

東洋医学の概念は、現代に生きている私達には本当に理解が難しいものです。鍼灸の学校に通い始めると、まずここでつまづきます。西洋医学に慣れ親しんだ私たちにとって、同じ医学と名がついていても全く違う、しかもより多くを包括する、それゆえにあやふやな東洋医学の概念は、口にいれるのにも飲み込むのにも暇がかかります。東洋医学の概念について、10人に訊くとすれば、10人がまったく同じことを答えることは恐らくないでしょう。それぞれに微妙に捉え方が違ったり、何かを付け加えていたり、逆に差し引いたりしているものです。それほどに、様々な方面、範囲を包括しているのです。

それを踏まえて、私が考える氣というものは。
最後に残る、説明できないエネルギー
です。意味不明?

例えば、心臓が動くのは、心臓の筋肉が収縮・弛緩するからですね。さらに心臓の筋肉が動くのは、心臓に分布する神経に電気信号が流れるからです。さらにさらに電気信号が流れるのは…と考えていって、最後に表現できなくなる何か…それを東洋医学は氣と定義したんじゃないかなと考えています。ただそれだけ。

オカルトチックなものでもなく、特殊な力を持っていたり修行を積んだりしないとわからないものでもなく。そこにあるけれど、今の段階では表現しきれない力。もっと研究が進んで、さらに詳しいことがわかり、名前が付いたとしたら、次はその奥にあるものが氣と表現される。終わりがない概念。

力とかエネルギーとかって、目には見えません。経過と結果が見えるだけです。氣も、そういうものなんじゃないかなと捉えています。

大事なものだけれど、大層なものではない。難しく考える必要もない。ただ見えないものに名前を与えただけ、そう思います。

結局、今回言いたかったことは。
怪しいもんじゃないよ
でしょうか。

読んでくださったかた、お疲れ様です。ありがとうございました。