陰陽に終始

黄帝内経素問

こんにちは。残暑厳しい今日この頃です。昨夜の大雨で、じとじと暑い。身体も気持ちもすっきりしませんが、続きを読んでいきたいと思います。とにもかくにも陰陽論。そういうお話です。

陰陽応象大論篇 第五(其の1)

黄帝曰、陰陽者、天地之道也、万物之綱紀、変化之父母、生殺之本始、神明之府也。治病必求於本。故積陽為天、積陰為地。陰静陽躁、陽生陰長、陽殺陰蔵。陽化気、陰成形。寒極生熱、熱極生寒。寒気生濁、熱気生清。清気在下、則生飧泄、濁気在上、則生䐜脹。此陰陽反作、病之逆従也。

黄帝が言う。陽とは自然界の法則であり、すべての物事の総括であり、変化の源であり、生死の根本であり、つまりすべての道理、またすべての根源は陰陽にあると言える。病気を治そうとするならば必ず陰陽の考え方が元となる。自然界で言うならば、陽の気が集まることによって天ができ、陰の気が堆積してできたのが地である。陰は静的、陽は動的な性質を持つ。また陽には排除する働きがあり、陰には収め守る働きがある。陽は機能させるものであり、陰は形を作るものである。寒気が極まると熱を生み、熱が極まると寒気を生じる。寒気は重く濁ったものを生み、熱気は軽く清らかなものを生む。だから清気が人体の下焦に溜まると下痢をしてしまい、濁気が上焦に溜まると腹が張って苦しむ。これは陰陽がそれぞれあるべき場所とは逆の位置に留まることで起こり、また病にも陰陽の理に従う一般的なものと、特殊なものがある。

陰陽というのは、もうとにかくすべての根本で、病気について考えるときも、自然について考えるときも、とにもかくにも陰陽、陰陽が中心だ、ということが書かれています。宇宙も自然も人間もすべて陰陽が中心になっていて、陰陽でできています(陰陽論で考えることができる、もしくは陰陽でわけることができる、と言うべきかも。太極図がそれを表しています。)陽は上にのぼる、動きまわる、何かをなすエネルギー、目に見えないものです。陰は逆で、下に沈む、じっとしている、形をつくるもしくは形そのもの、目に見えるものです。それらがその性質のままそこにあるなら問題ないけど、それが逆になることがあります。陽的なものが下にあって、陰的なものが上にあるというときがそのひとつです。それは陰陽のそもそもの性質に合わない、道理に合わないことがなんらかの原因で起こってるということだから、調子が狂ってしまいます。そもそも病気って言うのも、陰陽の道理にあってるものと合ってないものがあります。それは陰陽の一時的な不調ではなく、徐々に、深く重く進行した結果です(それらを順症、逆症といいます。)

難しいのは、陰としたものを見ればそのなかにさらに一回り細かい範囲の陰陽があって、陽としたものの中にも同じように更なる陰陽が存在するということです。自分がどの陰陽に注目しているのか、それをはっきりさせておかないないとごちゃごちゃになってしまう、ということがよく起こります。鍼灸をしていると「気の流れが目に見えるといいのになぁ」と年に数回くらい思います。

では今回はこの辺で。また次回。(冬になってないといいけどな)